山吹中テニス部が練習を終わらせた直後。
「清純のバカヤローっ!もう知らねぇ!!」
こんな声がコートに響き渡った。
声の主は、。
千石にしては珍しく、一年間も続いた恋人だ。
だが、喧嘩をした回数は数知れず。
その度に、二人と一番交流のある亜久津、南、室町、壇は迷惑を被っていた。
しかし……どうやら今日の喧嘩は一味違うらしい。
いきなりの出来事に、千石は勿論のこと、テニス部全員固まった。
「だ、大丈夫だって!明日には仲直りするし!!」
その様子に気づいたのか、千石は少し焦ったような笑顔を見せて、そう言った。
確かに、これまでのケースを見てみると喧嘩が長続きしたことはない。
長くて、三日だ。
だが果たして…………千石は本当にと仲直りができるのであろうか。
あれから、一週間。
千石はに無視されるという、今までではありえないショックな出来事に直面していた。
そして現在は、テニスをやる気にもなれず、部室の机にうつ伏せている。
「みなみぃ〜。俺、になんかしたかな……」
「あるから、はお前を無視してるんだろうが」
「そうです!センパイが悪いです!」
「壇くんまで……。俺、ショックだよ〜」
「ショック受けてるようには見えませんけどね」
千石に、三人は冷たい。
千石は本気で、頭を悩ませていた。
「やっぱり、あれかな?瑠璃ちゃんとデートしたのがいけなかったのかな?それとも、美香ちゃん?あー…でも、理沙ちゃんかも……」
今まで遊んできた女の子の名前を、とり合えず手当たり次第言ってみる。
次から次へと出てくる名前に、三人は呆れたように溜息をついた。
「なんか………センパイが可哀想です」
「まあ、確かによく一年も付き合ってられたな」
「さんもよく持ちましたね」
千石を尻目に、三人は言っているのだが、当の本人は名前を挙げるのに精一杯だ。
既に、かなりの数の名前を挙げている。
「この前鉢合わせた、亜樹ちゃんかもしれないし……。あーっ、一体どうしたらいいんだろう!?」
こればかりは、ラッキーでどうにもならない。
なにしろ、この状況を招いたのは自分なのだから。
の優しさ甘えて、女の子と手を切らなかった自分が。
のことを考えずに、いつも通りにしていた自分が。
一番、悪いのだ。
(ごめんね、…)
探して謝ろうにも、の居場所が分からない。
一年も付き合っていたのに、居場所の一つも分からないのだ。
けれども、はいつも千石の居場所をぴたりと当てて。
笑って付いてきてくれる。
千石は今更になって、の存在の大切さを理解した。
そして、を見つけるために。
千石は部室を飛び出した。
一方、は。
「あっくんっ!」
「ああ?また来たのかよ。それよりその呼び方はやめろって言ってんだろ」
屋上に来ていた。
それは、十年来の幼馴染、亜久津仁に会うためで。
千石と喧嘩してからは毎日、ここへ現れていた。
「癖だから気にすんな。それより、今日泊めて」
「またかよ。まだ、千石と喧嘩中ってわけか」
亜久津は呆れたように、を見た。
そんな亜久津の言葉に、はむっとする。
だが、はそれをさらりとスルーして、亜久津の隣に座った。
「なぁ、仁」
「なんだよ」
「あっくん」と呼ぶのをやめ、は亜久津のことを「仁」と普通に呼んだ。
元々、は亜久津のことは「仁」と呼んでいたのだ。
それが変わったのは、千石と付き合いだした頃。
ふざけて千石が「あっくん」と呼んだのにが便乗して呼び始めたのが始まりだ。
「やっぱりさ、俺の一方通行だったのかな………」
「…………」
主語が抜けた、の言葉。
さっきとは打って変わって真剣なの言葉に、亜久津はさっきまで銜えていた煙草を捨てた。
しばしの沈黙の後。
亜久津は口を開いた。
「そんなわけ、ねーだろ。一方通行であいつが一年も持つかよ」
「俺と付き合ってる間も、清純は女の子と遊ぶのをやめなかった。別にそれが悪いってわけじゃない。俺は清純を縛ろうとか思ってないし。そのさすがの俺でもあんなの見たら耐えられなくてさ……」
先週の日曜日。
は、買い物をしようと一人で商店街に来ていた。
そこの、ちょっとした小道で見つけたオレンジ色の髪。
はそれを発見すると、驚かせようと後を追いかけていた。
今思うと、行かなければよかったと思うのだが、既にそれは過ぎたこと。
はそこで、知らない女の子にキスをする千石を見てしまった。
「めちゃくちゃショックだった。思わず、見かけた仁を蹴り飛ばしたぐらいに」
「……あれは痛かったぜ」
蹴り飛ばされたときの痛みを思い出したのか、亜久津は顔を顰める。
だがその行動は、辛いときにしかがしないものだ。
感情表現が少し下手な、の危険信号。
受け止めるのはいつも、恋人である千石ではなくて亜久津。
「やば、俺ってこんなに弱かったか……?」
ぽろぽろと零れ落ちる、涙。
手で拭っても、次から次へと溢れてくる。
「…」
亜久津も、かける言葉が無い。
なにしろ、こんなを見るのはやっぱり初めてだから。
「なんで、清純を好きになったんだろーな…。こんな思いするんなら、好きにならなかったらよかったかも……」
亜久津の胸に、顔を押し付けて。
子どもみたいに、は涙した。
なにをどうすればいいのか分からない亜久津は、そのままの好きにしておいて。
火をつけない煙草を銜えた。
「俺…もう、清純が信じられない………」
ここまでを追い詰めるな、と彼の恋人に向けて視線を向けて。
亜久津は、どうしようもない二人に溜息をついた。
そして、十分後。
泣き止んだは、泣き過ぎて腫れた瞼を擦りながら亜久津を見上げた。
「悪かったな、仁。それと…ありがと」
一言、亜久津にそう言うと、は扉の向こうへと姿を消した。
そのすぐ傍に隠れていた、千石の姿に気づかずに。
「…出て来いよ、千石」
「なんだ、ばれちゃってたんだ」
の気配が完全に消えた頃、亜久津は隠れていた千石を呼ぶ。
千石は、そのまま隠れているつもりはないらしく、亜久津の言葉に苦笑しながら姿を現した。
「で、どこまで聞いてやがった?」
「……やっぱり〜のところからかな」
「全部だろうが」
どこかイライラしながら、亜久津はライターを取り出し、煙草に火をつけた。
が傍にいたときは、絶対しなかった行動。
「分かっただろ?あいつが苦しんでるわけ」
「…………………うん」
「じゃあ、聞くぞ。お前は、が本当に“好き”なのか?返答次第では、ぶん殴ってやる」
「あはは、痛いよそれ」
いつものように、軽く流す千石。
だが、そんな千石の態度は亜久津を苛つかせるばかりだ。
「真面目に答えろ」
「…分かったよ、降参。あっくんの勝ち」
手を挙げて、千石は降参のポーズをとる。
あくまで、ふざけるつもりのようだ。
しかし、そんなことを亜久津が許すはずもない。
次の瞬間。
千石の左頬に、痛みが走った。
「いったー…」
「歯は折れてないだけマシに思え。それと、いい加減にしねーとマジでドタマかち割んぞ」
後で腫れそうな頬を、千石は擦る。
さすがに、ふざけてしらばっくれてはこのままではすまないようだ。
千石も覚悟したのか、ぽつりと声を漏らした。
「…んだ」
「あ?」
「怖いんだ。に、が思ってる“俺”じゃない俺を見せるのが」
の思う“千石清純”じゃないことが怖い。
の思う“千石清純”分からないから怖い。
が…好いてくれる“千石清純”じゃなかったらどうしようと思うから、臆病になる。
千石は、そんなことを言った。
それに亜久津はくだらないと言い返す。
「あいつが“好き”な“お前”が分からないから怖いってか?はっ、馬鹿らしい」
「な…ッ!」
「嫌われるのが怖いから、あいつと会う前の自分でいようと思ったってか?勘違いも甚だしいじゃねーか」
「ッ!」
亜久津に言いたい放題言われ、血が上った千石は、思わず亜久津の胸倉を掴んだ。
お前になにがわかる、という瞳で、千石は亜久津を見る。
「なにがわか「分かるぜ」
亜久津は千石の腕を放し、目の前の幼馴染の恋人を見る。
「てめーのは分かんねーけどよ、俺はお前の分からないの気持ちは分かるぜ」
「…………え?」
「一度、話し合って来い。俺にもう、こんなことを言わすんじゃねーぞ」
亜久津はそう言って、言葉の意味が分かっていない千石を屋上から追い出す。
そして、空を見上げて呟いた。
「不器用過ぎんだよ………お前らは」
千石は走った。
未だに亜久津の言葉の意味は分からなかったけれども……確かに、今の自分たちには“話し合うこと”が必要だと気づいたから。
を見つけようと、必死で走った。
他に、心当たりのある場所なんてない。
とにかく闇雲に走る千石は、ある一つの場所を思い出した。
「もしかして、あそこかも……」
山吹の中で、千石とが初めて会ったあの場所。
今の今まで、すっかり忘れていた場所。
千石が、に一目惚れをした場所。
とにかく、千石はそこへと走った。
そこで目に入ったのは、こちらに背を向けて、空を見ている一人の少年。
その人物を見間違うはずもなく。
千石は、を見つけた。
そして、ゆっくりと背後から歩み寄り。
を抱き締めて。
「捕まえた」
と呟いた―――
いきなり、背後から抱き付かれて。
「捕まえた」
と、耳元で囁かれた。
それだけで、声の主が誰なのかが分かってしまう。
それでも後ろを振り向くのが怖い。
だからだろう、は身体をびくりと反応させつつも振り向こうとしなかった。
「あのね、話し合おう?今思ったんだけどさ、俺たち、真剣に話し合ったことなかったよね。俺、六月のこと、知りたいんだ。六月が、俺をどう思ってるのか。六月は俺のどこが好きなのか、いっぱい知りたい」
真摯な千石の言葉だけが、の耳に入ってくる。
その言葉には、いつものふざけた感じは見られない。
どちらかといえば、言葉を捜すのに必死な感じがした。
だからこっちを向いて、と言う千石の声が妙に痛くて。
は思わず振り向いてしまった。
けれども柄になく泣いて酷い顔になってしまった自分を見てほしくなくて、千石の胸に顔を押し付ける。
「俺、に嫌われたくなくて、どうしたらいいのか分からなくて、自分を装ってた。それが、六月にダメージを与えてたなんて知らなかった。あっくんに、怒られちゃったよ」
ぎゅっと、を抱き締めて、千石は言う。
「仁が…?」
「うん。勘違いも甚だしいーってさ。それで、殴られちゃった」
「殴られた!?」
あまりにも、へらっと千石が言うものだから、は思わず顔を上げてしまった。
ぶつかる、二人の視線。
「やっと、見てくれた」
「あ…………」
いつもの、否、いつもより優しい千石の笑顔。
それを見たら、なんだかが思いつめていたことや、千石を信じられないと言ったことなどは頭から飛んでしまっていた。
それが、の見つけた、千石のいいところ。
自分のペースに人を巻き込んで、人を惹きつける。
そんな千石がの、一番好きな“千石清純”
「ねえ、聞いていい?はどんな“俺”を好きでいてくれてるの?」
「俺が好きな“清純”は――――――」
その時風が吹いて。
その言葉の先を攫って行ってしまった。
しかし、言葉は千石には届いたようで。
珍しく、顔を真っ赤にさせて呆然としていた。
それを見て、はくすりと笑い。
するりと千石の腕から逃げ出した。
「俺を捕まえたら、許してあげないこともない」
二人の間を、気紛れな風が通り抜けた。
あれから、数日。
山吹には、仲良さげに笑う二人の姿があった。
結局、振り回されたのは彼らの周囲である。