初夏のとある日の夕方。
はいつも通り一護の家庭教師をこなし、自宅マンションのエレベーターに乗っていた。
黒崎家とも大学とも近く、セキュリティも家賃のわりにいいここをは気に入っている。
エレベーターはすぐにの部屋があるフロアに着き、はエレベーターより出た。
すると、前方から黒い蝶がヒラリと舞いながらに近づいてくる。
はそれを見つけると、すっと人差し指を伸ばした。
蝶はそれに、ゆっくりと留まる。
それからは飛び立つこともなく、の指の上におとなしく留まっていた。
まるで、意思があるかのように。
やがては鍵を使い、玄関を開ける。
そして足をリビングの方へ向けると、そこのソファに身を沈める一人の男の方へ歩み寄った。
蝶はの指から離れ、男の銀色の髪の上に止まる。
だが、すっかり寝ている男が気づく気配は無かった。
その様子に、はくすりと笑う。


「ギン、いつまで寝るつもり?」
「ん……」


は、自らがギンと呼んだ男の耳元で囁くと、男は………市丸ギンは、僅かに身じろいだ。
しかし、完璧な覚醒とはいかないのだろう。
寝惚けた様子で、しゃがみこんでいたの手を引っ張った。
自然とは、市丸の上に倒れこむ。


「……ギン。起きてるんだろう?」


そのギンの上に抵抗もなくのしかかりつつ、は言った。
ギンは、まだ起きる素振りは見せない。


「ギ、…っ」


ン、と発せられるはずだった言葉は、合わさった唇により消され。
後頭部をいつのまにか伸びてきた腕に押さえられて、自分から退くことはできない。
相変わらずの策士だな、と思いつつ、はそれを受け入れた。
しばらく、経った頃だろうか。
すっかりの全身の力が抜けきった頃、市丸は身体を起こした。
腕には、きちんとを抱えた状態で。


「久しぶりやね、
「…そうだけど。寝たふりをして人を騙すなんてどういう魂胆?」


恨みがましく市丸をその腕の中から見上げながら、は言う。
のその言葉に、市丸は笑った。


「それに、またさぼってきたね?貴方の副官が大変な目に遭ってるよ、きっと」
「イヅルは、優秀な子やから大丈夫や」


自らの腕からするりと逃げ出したを見やりながら、市丸は言った。
開け放たれていたベランダの窓から、風が吹き、市丸の羽織を揺らす。
現代には似つかわしくないそれは、市丸がこの世の者ではないことを現すものだ。
かれこれ、彼とであって十五年は経つが、彼はまったく年をとっていない。
それが何よりの証拠だ。


「それにボクがここに来たのは、に逢うためやから。最近、は家におらんみたいやしなァ」
「……大学があるって」


市丸には内緒で家庭教師をしている身だ。
言えるはずがない。


「それかて、夕方ぐらいには戻ってくるやろ?こんなに遅いのはおかしいで」


ずぃっと顔を近づけて、市丸は言う。
は真剣な顔の市丸に気圧されて、詰め寄られるごとに身体を後退させた。
幼少時から市丸が度々現れているせいなのだろう、の行動はほぼ市丸に分かってしまう。
これまで、隠し事を隠し通せたことは一度もない。
それほどまでに鋭いのだ。
この、市丸ギンという男は。


「観念して、白状しぃ」


とん、との身体が壁に着いた。
それと同時に、市丸の腕がを挟み込むように壁に着く。
もう逃げられないと、は悟っていた。


「……家庭教師、してるんだ」
「家庭教師?」
「週に4回だけだけどな」


言ったんだから退いて。
と目で訴えてくる
市丸は仕方がなく、壁に着いた手を離した。
壁に凭れかかったままの身体を起こし、は人差し指を差し出した。


「おいで」


優しくそう言うと、ヒラリヒラリと舞っている蝶が最初と同じようにの人差し指に留まった。
市丸がその蝶に向かって指を伸ばすが、蝶はそれから逃げるように舞い、の頭に留まる。


「嫌われてるね」
が好かれとるだけや」


くすくすと笑いながら言ったに、市丸が言い返す。
確かに、はこの蝶…地獄蝶に好かれすぎていた。
同じ蝶であるはずがないのに、市丸が連れて来る蝶は全てに懐く。
気がつけば、のいる方へと行ってしまうのだ。
そして、この蝶こそがと市丸が出逢ったきっかけだ。


「ほら、ギンのところへ行かないと」


は頭の上の蝶に話しかける。
すると、蝶はの言葉を理解したかのように、市丸の肩へと留まった。
先程の、行動が嘘のように。


「…やっぱり、の方が地獄蝶の扱いがうまいわ」
「それはどうも」


笑って言う
市丸はそんなに向かって、腕を伸ばした。
そうして、腕にを閉じ込める。


「…大きぃなったな」
「もう、今年で二十歳だから」


耳元で囁くように言われるその言葉に、は柔らかなその声で返答する。
寂しい頃に現れた彼は、ことあるごとにこちらへ来てくれて。
とともに時を過ごした。
ひょっとしたらその時間の長さは、の両親たちといる時間より長いかもしれない。
そのせいか、は実の親より市丸を慕っていた。


恐らく、が抱いている感情は親愛の情。
だが市丸が抱いている感情は………なんなのだろうか。


市丸はを抱き締めたまま、の手をとる。
そこには、市丸と同じ髪の色の指輪が一つ、嵌っていた。
指輪に軽く口付けをして、市丸はを見る。


「霊圧も、強くなっとる。もうこの指輪じゃ、抑えれんわ」


指輪を静かに抜き取り、市丸は懐から違う指輪を取り出した。
抜き取られたものと同じ、シンプルなデザインのそれ。
それを市丸は、指輪が抜き取られた指に嵌める。


「ありがと、ギン」
「ええって。が虚に襲われたら大変やし」


ギンはそう言って、ぎゅっとを抱き締めた。
は、その背中に腕を回す。
静かな部屋の中を、黒い蝶が舞っていた。


「そろそろ…帰らんと」
「…ん、分かってる。また、ね」


の言葉に市丸は軽く頷き、腰に差していた脇差のような刀を鞘から抜いた。
それを見ると、は少し市丸から距離を置く。




「解錠」




市丸が刀を空間に刺しそう呟くと、扉の役割をしている襖が現れた。
その中に、市丸は入っていく。
そうして、最後に一回だけ振り返ると、襖の向こうへと消えて行った。
同時に、襖も消える。
そして、なにも無くなったその場所を、はじっと見ていた。


次、会えるのはいつになるのだろうかと思いながら。





僕はその腕を

引き止める術を知らない

(そんなことをしたら、彼が困るだろう?)